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十字架

今日は三月だというのに、とても寒く、

教会に行ってきましたが、暖房がきいていないので

体が芯まで冷えてしまいました。

教会でも、被災者・犠牲者のために特別な祈りを捧げました。


ふと、1年前のやはり、寒かったあの日のさなかに、災害にあった方たちの

ことを、想い出し、どれほどの寒さ・恐怖に耐えていたのかと思うと、

何と言ったらいいのか・・言葉を失います。

cross01.jpg

この写真は、北海道の留萌カトリック教会の、

御御堂にある 20数年前に作られた、十字架です。


それは、神父さまが、名もなく散って行った開拓者の犠牲 

を忘れないために北海道開拓時代に作られた古い廃線から、

抜いた釘 (もちろん許可を得てですよ) 作ったのです。

十字架が作られた時、私は幼かったのですが、その

意味は深く心に焼き付けられました。

沢山の犠牲の上で今がある・・ということ。


この世にどんな苦しみや辛さがあっても

全ては、将来の光につながっている、



被災地の復興、犠牲者のご冥福をお祈りいたします。


辛い時悩みの時に 晴佐久昌英神父福音の村

 ~ 「私たちが、困っている時も、悩んでいる時も、疲れている時も、
    病の時も、争っている時も、大失敗した時も、ホントに危険の中にある時も、
    どんなに恐ろしい目にあったとしても、そして、死の間際になっても、
    神様、あなたが共におられることのしるしとしてください。父と子と・・・」 ~
  
                                                              
                                                                 福音の村より引用

先日 多摩カトリック教会の hana さんより
コメントを 頂いて 晴佐久神父様の 福音の村
が 立ち上がったとことを 知りました。

晴佐久神父様は 絶望から希望へ 導いて下さる 素晴らしい
ミサを 毎週多摩カトリック教会で とりおこなっています。

以前は高円寺のカトリック教会主任司祭で 驚異的な人数の迷える子羊
たちを 揺るがない答えに導いてきました、私も ネットで神父様の
お説教を 真っ暗な 気持ちの時は 本当によく読み助けられました。 

hukuinnomori1.jpg

↑ 福音の村のリンクです

適当な気休めではない そこにあるのは 真理 なのです。

ここで ぐだぐだ私が 経験したことを いつものように
書くのは 割愛します、底なしの不安や恐怖 焦燥感、
それは モノでも 人でも 埋められない、
ただひとつ 絶望から救ってくれるのは「みことば」です。

私の場合も みことばによる 信仰が救ってくれました。

だから もう怖いことがないのか といえば そうではないのですが

そういうときに 「だいじょうぶ」 と 信じるものがあることは
途方もない力に なってくれます。

それは 冒頭の一文 にあるように

「 死の間際になっても。」


多摩カトリック教会では いま おやつの会 というものを毎週木曜
に行っているようです、 行ってみたいなーー^_^

 
     
     ・・・「おやつの会」も、思えばこの「3・11」がきっかけで生まれたものですけど、どうか皆さん、
     覚えといてくださいね。先月から「おやつの会」っていうのが、始まりました。毎週木曜日、
     一年中すべての木曜日の午後3時、おやつの時間に教会に来ると、おやつが出ている。
     ただそれだけの集まりです。べつに誰でもいい。信者でもそうでなくても、元気でも悩んでても、
     誰でもいい。ともかく来れば、お茶とおやつがあって、家族同然っていう仲間がいる。
     特に、不安とか恐れとかにとらわれて孤立している人に来ていただきたい。
     試練のとき、元気な人、恵まれている人はなんとか助かっても、心身の元気がない人、
     環境的に恵まれてない人は、ホントに不安になって絶望的になっていく。
     そんな人にこそ、み言葉が必要なんだから、教会という、それこそ生きた神のみ言葉があふれる
     現場にね、みんな集まれ、あなたはひとりじゃないっていうのが、この「おやつの会」。
                                                             福音の村より引用



「 いいことがあろうとなかろうと、うまくいこうといくまいと、
                 私たちは神の祝福をいただいている 」

「人間は永遠なる意味に向かって生きている」

 
神父さまの福音は シンプルで真理そのものなのです。

カトリックのクリスマス

今朝は 主の降誕ミサに行きました
上の子が 第一朗読で イザヤの予言を
読む予定だったので 遅刻しないように早起きして(*_*)

今日は夫もミサに参加してくれてありがたかったです。

昨夜半は 慰問活動の仲間と 打ち合わせと称して
爆笑トークをしていたので 実は少し今でも眠いです。

xmascakesushi.jpg

慰問に お笑いの要素 をいれようと 話していたら
どんどんすごいことになって 慰問先の人が失神しそうなぐらい
面白いネタ (白鳥とか赤ちゃんネタ)ができあがりました。

やっぱり 前列の人が眠ってしまう内容よりも
考えるすきを与えないぐらい びっくりするような
ものを繰り出した方が 楽しいんじゃないの?



土屋アンナじゃないけど バカは天才 ってね
ホント そうかも。

一緒にいて楽しい ってすごいことだなー と思う。

非の打ちどころない立派な人も 素晴らしいですが
一緒にいて キツイなぁ と思う事がある

私もストイックな生き方を 目指そうと
一瞬思ったことがありましたが 腑に落ちない点があって やめました。

むしろ 立派じゃなくても 共に過ごす時、相手が楽しい
と思ってくれることのほうが 実は 真理なのじゃないかって、

自分の 厳然たる正しさの中にあることよりも
共にいる相手が笑ってくれる方が 遥かに 嬉しく正しいような気がする。

それは やはり 許されている という感覚
を 持てるか持てないか の 小さくて 大きな差 なのだ。


今日は クリスマス 全てを許して下さった
イエス・キリストの 誕生日です (*^_^*)

よい クリスマスを・・・・☆



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